2008年12月10日水曜日

「トロッコ問題」にモノ思う秋の夜長

たけしの平成教育委員会とかなんとかで、いわゆる「トロッコ問題」というのが話題に挙がったそうです。
この「トロッコ問題」の存在は知ってはいましたが、あらためてじっくりと考えてみると実に興味深いものです。

「トロッコ問題」とは?---------
トロッコの線路がある。その上を暴走トロッコが走ってきており、そのまま走ればその線路の先に5人の人がいて轢き殺してしまう。しかし、その前に路線の切替機があり、私はそこにいる。路線を切り替えるとその先には1人の人がいて同じく轢き殺してしまう。さてあなたはどうするでしょうか?

選択肢は3つ。

1.切替機を切り替える。⇒ 1人轢き殺される。
2.切替機を切り替えない。⇒ 5人轢き殺される。
3.見て見ぬフリをする(決断をしない)。⇒ 5人轢き殺される。

つまり5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか、という問題であるといえる。
1.であれば「5人を助けるべきだ」という意見だし、
2.であれば「5人を助ける為に関係ない他の1人を犠牲にすべきではない」という意見である。
3.であれば結果は2.と同じなんだけど、自分で判断することによって自分のせいになることが嫌な人、もしくは判断不能だった人。

更にいえば、「切り替えなかった人が道徳的責任を負うべきか?」という問題でもある。

さて、どう判断すべきなのでしょうか?
一般的に考えると、1.を決断したことによって大きな問題になるとは思えない。
2.を決断することによって、自分のポリシーは貫けるがかなりの批判があることを覚悟する必要はある。
いずれにしても3.のような人ではありたくない。

さて本論ですが、医療の世界では基本的な考え方として、トリアージ(Triage)というものがあります。
人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること。
つまり、常に多くの効果がある方の処置を選択するというもので、この考え方に基づくと1.を選択することが正しく一般的な判断になります。

色々な問題は交錯するにせよ、ある意味でこの問題はまだ判断が楽な方かもしれません。しかし経営(その他も)などの現場では、同じような判断を迫られることの連続だと思う。誰にでも出来る判断や法律で決まっていることなどの判断はある意味でルーチンなので楽だと言えます。

本当にしんどいのは、結論が出ないことや結論を出せないことに対して最終的に結論を出さないといけない上に責任までとらなければならないことです。

ここからは私が考えた設問ですが、以下のような状況だとどういう判断をすべきでしょうか?
同じようにトロッコが走ってきて、行き先を2つのレールに切り替えられ、そのどちらかをあなたは選択しなくてはならない。そのまま決断しなければ、どちらを轢き殺すか分からない・・・として。

<問題1>片方のレールの先には1人の青年がいて、もう一方には障害を持つ子供がいる場合。
<問題2>片方のレールの先にはおじいさんが2人いて、もう一方には妊娠した若い女性がいる場合。
<問題3>片方のレールの先には2人の子供がいて、もう一方にも2人の子供がいるが、その子供の1人は自分の子供の場合。

その他にも色んなケースが考えられると思いますが、この場合の選択においては判断そのものは難しい選択を迫られるけれど、結果に対しては、道徳的責任を厳しく問われることがあるのだろうか?

翻って全く話題は変わるけど、わが日本国の総理大臣 麻生太郎氏。馬鹿だ無能だとマスコミや街頭インタビューで一般ピープルから言われっぱなしだけど、そう言い切れるほどの簡単な判断ではなく、このような種類の複雑な事情や背景に基づいたことに対して、総理大臣としての判断を迫られることの連続だと思います。
しかも、結果責任を問われるし、どう判断したとしても誰かからはバッシングされてしまう。結局大切なのは、その判断の元となった事情や背景と決断の根拠をいかに分かり易く尚且つ説得力を持って説明できるか?にかかってるんだなあとつくづく考えさせられます。

ここまで書いたところで、ネット上にこの問題に対してパシッと簡潔に核心をまとめた素晴らしいものを見つけたので以下に紹介させてもらいます。ものすごく深いです。社会生活における人間関係の本質を理解する上で欠かせない要素のように思えます。


[日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子]WIRED NEWS 原文(English)  ---------------------------
ある状況下では、1人を犠牲にしてたくさんの人の命を救うことは全く正しいことに思える。一方で、同様の命の救い方が、良心に欠けると感じられる状況もある。道徳観念において、われわれの考え方は思ったほど理性的ではないのかもしれない。

「興味深いのは、一貫性に欠けていることだ」とハーバード大学の社会心理学者Mahzarin Banaji氏は言う。「われわれは突如としてカント主義的になる場合がある」このパラドックスを何より明確に示すのが、「トロッコ問題」(トロリー問題)という古典的な思考実験だ。
5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。
しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。
トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。[この問題は「The fat man」と呼ばれるもので、Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション]

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。カリフォルニア州パロアルトで10月26日(米国時間)に行なわれた、全米サイエンス・ライティング振興協議会(CASW)の会議でのことだ。[Time誌の記事によると、「5人を救うためでも線路に落とさない」と回答するのは85%にのぼる]

われわれは、1人をトロッコの前に突き落とすことと、トロッコを1人の方へ向かわせることとは、何かが異なるようだと直観的に感じる。
しかし、なぜそう感じるのかは、社会心理学でも神経科学でも哲学でも、いまだ解明できていない。
興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。
「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。
しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。
また、善悪判断に関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず道徳規則に従うという形になる。
このような、「もし?ならば?せよ」という形ではない「定言命法」が、カント倫理学の根本的原理]

読者のみなさんはどうお考えだろう? 一見してパラドキシカルな人間の行動は、われわれのモラルの配線が偶発的にショートしたもので、脳が考える倫理にはそもそも恣意的な性質があることを暴露していると解釈すべきなのだろうか?
あるいは、行動のなんらかのレベルにおいては、進化論的に理にかなったことなのだろうか?

[Time誌の記事などによると、fMRI(脳スキャン)を使ったトロッコ問題研究がある。「トロッコを側線に導く形で1人を犠牲にして5人を救う」という場合は、前頭前野背外側部(客観的な功利的判断をする場所)の活動が活発になるが、「5人を救うために1人を落とす」ことを考える場合は、前頭皮質中央(感情に関係がある)が活発になる。
これらの脳の2つの部位のバランスのもとに最終判断が下されるという(Science 293(5537),2105?8, 2001)。

また、医学界新聞の記事によると、腹内側前前頭葉皮質(VMPC:ventromedial prefrontal cortex)に傷害のある患者は、トロッコ問題に対して常人とは異なった判断を下すことも示されている。

VMPCは以前から、同情・羞恥心・罪悪感といった「社会的感情」に関与する領域として知られているが,この領域に傷害がある患者は、例えばトロッコ問題に対して、「多数の命を助けるためには、隣に立っている人を橋から突き落としても構わない」と答える傾向が際立って強いことが明らかにされ、倫理的判断は理性と感情のバランスの下に下されるとする説が一層信憑性を強めることになったという(Nature446(7138),908?11, 2007)]