2008年12月12日金曜日

神戸ルミナリエと東京ミレナリオ

今年も、12月4日から地元の神戸で“ルミナリエ”が開幕しました。
阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂、被災地の復興を願う光の祭典としてスタートして14回目。
今年もたくさんの人が訪れているようです。私はジモティでありながら、あまりの混雑さにうんざりして、殆ど行ったことはないのですが、『きれい』という言葉だけでは言い表わせないぐらい、とても幸せな、あたたかな気持ちになれたような記憶があります。

テレビなどの紹介でも、「ルミナリエの幻想的な光に心を癒やされた。」という人は多いように思います。
しかし、数年前に偶然通りかかった東京丸の内に出現していた『東京ミレナリオ』を見た時、私はショックを隠せませんでした。神戸ルミナリエの協賛企画であると本気で信じようとしたくらいです。
しかし、実際は全く違うものだということが分かった瞬間、ある意味でフリーズしました。神戸ルミナリエの東京移植バージョンである。と言いながら全く同じ企画、そんなんアリか?
神戸ルミナリエはあの大震災で命を落とされた方々や、被害に遭われた全ての人を慰める鎮魂の意味を込めて開催されています。その意義はずっしりと心に響きます。
14年間、毎年光をともし続け、震災の被災者だけでなく、訪れるすべての人に感動と勇気を与えています。12月の始め頃から始まって、クリスマスの前には敢えて幕を降ろす・・・ある意味で商業ベースの取組みをも排除して、採算も非常に厳しいという話も聞いていますが、そんな逆境にも負けずにずっと変わらず照らすべきものを持っているところが特別の意義を持っているはずです。
一方で東京ミレナリオは、毎年12月下旬から翌年1月にかけて東京丸の内(東京駅丸の内~東京国際フォーラム)で行われていた純粋な商業祭典。
1999年から開催されていて、丸の内界隈の通りにイルミネーションを仕立てて、夜間に点灯して美しさを楽しむイベントで、今は東京駅の工事の為に一旦休止しているけど、完全に商業目的のお祭りイベントです。
華やかでにぎやかな都会のアーバンストリートを演出することで、商業ベースを加速させようということ自体を否定するつもりは全くないけど、神戸ルミナリエ同様にイタリア人のヴァレリオ・フェスティ(Valerio Festi)と今岡寛和との共同作品という企画自体にも疑問を持つし、アーティストとしての良心さえ疑ってしまいます。

年に一度、神戸の街に光の彫刻として灯がともる意味を、そしてその光の先に見えるものは何かを、もう一度しっかりと考えて欲しい。
出来ることなら、今の企画のままでの再開なら、して欲しくない。

2008年12月10日水曜日

「トロッコ問題」にモノ思う秋の夜長

たけしの平成教育委員会とかなんとかで、いわゆる「トロッコ問題」というのが話題に挙がったそうです。
この「トロッコ問題」の存在は知ってはいましたが、あらためてじっくりと考えてみると実に興味深いものです。

「トロッコ問題」とは?---------
トロッコの線路がある。その上を暴走トロッコが走ってきており、そのまま走ればその線路の先に5人の人がいて轢き殺してしまう。しかし、その前に路線の切替機があり、私はそこにいる。路線を切り替えるとその先には1人の人がいて同じく轢き殺してしまう。さてあなたはどうするでしょうか?

選択肢は3つ。

1.切替機を切り替える。⇒ 1人轢き殺される。
2.切替機を切り替えない。⇒ 5人轢き殺される。
3.見て見ぬフリをする(決断をしない)。⇒ 5人轢き殺される。

つまり5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか、という問題であるといえる。
1.であれば「5人を助けるべきだ」という意見だし、
2.であれば「5人を助ける為に関係ない他の1人を犠牲にすべきではない」という意見である。
3.であれば結果は2.と同じなんだけど、自分で判断することによって自分のせいになることが嫌な人、もしくは判断不能だった人。

更にいえば、「切り替えなかった人が道徳的責任を負うべきか?」という問題でもある。

さて、どう判断すべきなのでしょうか?
一般的に考えると、1.を決断したことによって大きな問題になるとは思えない。
2.を決断することによって、自分のポリシーは貫けるがかなりの批判があることを覚悟する必要はある。
いずれにしても3.のような人ではありたくない。

さて本論ですが、医療の世界では基本的な考え方として、トリアージ(Triage)というものがあります。
人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること。
つまり、常に多くの効果がある方の処置を選択するというもので、この考え方に基づくと1.を選択することが正しく一般的な判断になります。

色々な問題は交錯するにせよ、ある意味でこの問題はまだ判断が楽な方かもしれません。しかし経営(その他も)などの現場では、同じような判断を迫られることの連続だと思う。誰にでも出来る判断や法律で決まっていることなどの判断はある意味でルーチンなので楽だと言えます。

本当にしんどいのは、結論が出ないことや結論を出せないことに対して最終的に結論を出さないといけない上に責任までとらなければならないことです。

ここからは私が考えた設問ですが、以下のような状況だとどういう判断をすべきでしょうか?
同じようにトロッコが走ってきて、行き先を2つのレールに切り替えられ、そのどちらかをあなたは選択しなくてはならない。そのまま決断しなければ、どちらを轢き殺すか分からない・・・として。

<問題1>片方のレールの先には1人の青年がいて、もう一方には障害を持つ子供がいる場合。
<問題2>片方のレールの先にはおじいさんが2人いて、もう一方には妊娠した若い女性がいる場合。
<問題3>片方のレールの先には2人の子供がいて、もう一方にも2人の子供がいるが、その子供の1人は自分の子供の場合。

その他にも色んなケースが考えられると思いますが、この場合の選択においては判断そのものは難しい選択を迫られるけれど、結果に対しては、道徳的責任を厳しく問われることがあるのだろうか?

翻って全く話題は変わるけど、わが日本国の総理大臣 麻生太郎氏。馬鹿だ無能だとマスコミや街頭インタビューで一般ピープルから言われっぱなしだけど、そう言い切れるほどの簡単な判断ではなく、このような種類の複雑な事情や背景に基づいたことに対して、総理大臣としての判断を迫られることの連続だと思います。
しかも、結果責任を問われるし、どう判断したとしても誰かからはバッシングされてしまう。結局大切なのは、その判断の元となった事情や背景と決断の根拠をいかに分かり易く尚且つ説得力を持って説明できるか?にかかってるんだなあとつくづく考えさせられます。

ここまで書いたところで、ネット上にこの問題に対してパシッと簡潔に核心をまとめた素晴らしいものを見つけたので以下に紹介させてもらいます。ものすごく深いです。社会生活における人間関係の本質を理解する上で欠かせない要素のように思えます。


[日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子]WIRED NEWS 原文(English)  ---------------------------
ある状況下では、1人を犠牲にしてたくさんの人の命を救うことは全く正しいことに思える。一方で、同様の命の救い方が、良心に欠けると感じられる状況もある。道徳観念において、われわれの考え方は思ったほど理性的ではないのかもしれない。

「興味深いのは、一貫性に欠けていることだ」とハーバード大学の社会心理学者Mahzarin Banaji氏は言う。「われわれは突如としてカント主義的になる場合がある」このパラドックスを何より明確に示すのが、「トロッコ問題」(トロリー問題)という古典的な思考実験だ。
5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。
しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。
トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。[この問題は「The fat man」と呼ばれるもので、Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション]

この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。カリフォルニア州パロアルトで10月26日(米国時間)に行なわれた、全米サイエンス・ライティング振興協議会(CASW)の会議でのことだ。[Time誌の記事によると、「5人を救うためでも線路に落とさない」と回答するのは85%にのぼる]

われわれは、1人をトロッコの前に突き落とすことと、トロッコを1人の方へ向かわせることとは、何かが異なるようだと直観的に感じる。
しかし、なぜそう感じるのかは、社会心理学でも神経科学でも哲学でも、いまだ解明できていない。
興味深いことに、この問題の登場人物をチンパンジーに置き換えた場合、人間は躊躇なくチンパンジーを線路に投げ落とす選択をするという。
「自分たちとは異なる要素があると、人間は功利主義[善悪は社会全体の効用によって決定されるという立場。最大多数の最大幸福が目標になる]になる。
しかし、自分たち自身のためには、カント主義的な原則に従うのだ」とBanaji氏は述べた。

[カントの義務論は、功利主義と根本的に異なるとされる。つまり、最大多数の最大幸福による止むを得ない犠牲(他の義務を切捨てた事等)自体は善とされない。
また、善悪判断に関して、功利主義は目的や結果を評価するのに対し、義務論は意志や動機を評価する。義務論では、どんな場合でも無条件で、「行為の目的」や結果を考慮せず道徳規則に従うという形になる。
このような、「もし?ならば?せよ」という形ではない「定言命法」が、カント倫理学の根本的原理]

読者のみなさんはどうお考えだろう? 一見してパラドキシカルな人間の行動は、われわれのモラルの配線が偶発的にショートしたもので、脳が考える倫理にはそもそも恣意的な性質があることを暴露していると解釈すべきなのだろうか?
あるいは、行動のなんらかのレベルにおいては、進化論的に理にかなったことなのだろうか?

[Time誌の記事などによると、fMRI(脳スキャン)を使ったトロッコ問題研究がある。「トロッコを側線に導く形で1人を犠牲にして5人を救う」という場合は、前頭前野背外側部(客観的な功利的判断をする場所)の活動が活発になるが、「5人を救うために1人を落とす」ことを考える場合は、前頭皮質中央(感情に関係がある)が活発になる。
これらの脳の2つの部位のバランスのもとに最終判断が下されるという(Science 293(5537),2105?8, 2001)。

また、医学界新聞の記事によると、腹内側前前頭葉皮質(VMPC:ventromedial prefrontal cortex)に傷害のある患者は、トロッコ問題に対して常人とは異なった判断を下すことも示されている。

VMPCは以前から、同情・羞恥心・罪悪感といった「社会的感情」に関与する領域として知られているが,この領域に傷害がある患者は、例えばトロッコ問題に対して、「多数の命を助けるためには、隣に立っている人を橋から突き落としても構わない」と答える傾向が際立って強いことが明らかにされ、倫理的判断は理性と感情のバランスの下に下されるとする説が一層信憑性を強めることになったという(Nature446(7138),908?11, 2007)]

2008年12月7日日曜日

『IT産業 再生の針路』 破壊的イノベーションの時代へ

『IT産業 再生の針路』 破壊的イノベーションの時代へ

【IT産業 崩壊の危機・続編】 田中克己(日経BP社編集委員) 日経ソリューションビジネス (単行本 - 2008/12/4)

「絶対面白いから」という推薦があったので読んでみました。2007年12月に発行して大反響を巻き起こした「IT産業 崩壊の危機」の続編で発売したてホヤホヤの新刊です。
著者は日経コンピュータ副編集長、日経ウォッチャーIBM版編集長、日経システムプロバイダ(現日経ソリューションビジネス)編集長などを経て、30年近くIT産業の動向をウォッチし続けている人なので立ち位置的にも今、取組んでいるビジネス分野と一致しているのと、同業他社の具体的な名前と、曖昧だけどある意味で具体的な方向性を挙げながら説明しているので説得力がある内容でした。

IT業界に携わる人に向けて、新しい時代を予見する「究極の1冊」というふれ込みです。グローバル化、クラウドコンピューティングの時代を迎え、富士通やNEC、日立はどう動くのか?NTTデータや野村総研の次の一手は?中小ソフト開発会社の生き残り策とは?といったテーマでぐいぐいと切り込んでいっています。
日本のIT産業を取り巻く状況と問題点を明らかにしながら進むべき道を提案する形で展開されて、旧態依然のビジネスモデルからIT産業が抜け出すための具体策を提言しています。
期待したほどの内容ではなかったのは仕方ないなあと言う気はします。
最近、この手の「今後のITの方向性」といったような内容の雑誌記事とか書籍とかをかなり読んでいるのですが、ズバッと「これだ!」的な答えなんかはある訳はないし、期待する方も悪いと思って反省です。

以下が目次ですが、これを見ればどういった内容なのかが大体分かると思います。

【目次】序章 21世紀の新IT産業とは-サービス時代に成長する企業、沈む企業-
第1章 IT産業を取り巻く現実-技術軽視のITベンダー、IT軽視のユーザー企業-
第2章 事業再編に乗り出す大手ITベンダー-グローバルに通用する商品を作り出せ-
第3章 ITサービス大手が取り組む改革-カギは新規ビジネスの創造にあり-
第4章 変革迫られるソフト開発会社-下請けからの脱却へ-
第5章 中堅・中小ソフト開発会社を取り巻く環境-ビジネスモデルを見直し、攻めの姿勢を-
第6章 IT活用の責任はユーザー企業にある-自立したIT部門が経営者を支える-
第7章 技術力の低下で人材育成が急務に-新たな環境作りが求められる-
第8章 IT産業が構造改革に着手する日-技術と経営を刷新し、新しいITサービスを創出-

2008年12月6日土曜日

ジェフ・ベックの最新ライブ版 Performing This Week...Live at Ronnie Scott's

まさにロック史に名を刻む伝説的なギタリストの完全復活ライブ版がリリースされました。
ジェフベックは、高校生時代にはまったギタリストではあるけど、特にジェフベックが聴きたくて買った訳ではなく、西海岸の売れっ子フュージョンドラマーのVinnie Colaiutaが参加しているリズムセクションを聞きたかったのが理由です。
先日の来日コンサートの時にバックでドラムを叩いていたVinnie Colaiutaがとても良かったというのを聞いていました。

しかし、ジェフベック恐るべし!です。一体このオッさんいくつになるんだろう?60歳くらいにはなっているはず! ややジャズっぽいテイストに変化しながら、現代風なトーンやフレージングにアレンジしているので十分に聴き込める内容になってました。
Cause We've Ended As Lovers


この後ろでドラムを叩いているオッさんがVinnie Colaiutaです。


・・・ということで、

聴きたかった本命のVinnie Colaiutaがドラム参加しているウエストコースト系バンドで、David Garfield率いるロサンゼルスの超絶技巧集団Karizmaが2000年にヨーロッパ遠征を行なった際のライブも一緒に買いました。

こちらの方は、なかなか手に入らなかったのと、聴いてみると、ここ最近のCDの中では大当たりだったのとで満足度いっぱいです。

ジェフベックと違って正真正銘の最前線トップバンドです。
このオッさん達、いわゆるスタジオミュージシャンと呼ばれる人達です。見た目はさえないのですが、売れっ子歌手のCDなどではかなりの割合で彼らが裏方としてレコーディングしています。いろんな歌手のCDを作成する時、スタジオで手渡される譜面を初見で理解して、次から次へと録音して片付けていくと言う作業は、ある意味で才能のあるミュージシャンであればあるほどかなりストレスの溜まる仕事のような気がします。
そういった彼らが、職業として演奏するのではなく、自分達の好きな音楽をバンドという形で演奏することはそれほど多くないので貴重だし、エキサイティングです。
↓この演奏も、大枠のテーマ(主題のメロディ)だけは事前に決めておいて、その他はほぼ即興で演奏しています。
Vinnie Colaiuta & Karizma - Nothing Personal