2009年6月6日土曜日

いわゆる足利事件の判決記事が興味深い。

このニュースの 概要は以下の通り。

平成2年の足利事件で殺人罪などに問われ、無期懲役が確定した元幼稚園バス運転手、菅家利和さん(62)について、東京高検が4日、菅家さんのDNA型と女児の下着に付着した体液が一致しないとする再審請求即時抗告審での再鑑定結果を認め、釈放することを決定した。
これをうけて、菅家さんは同日午後、千葉刑務所から釈放された。関係者によると、再審開始決定前の受刑者に検察当局が釈放を認めた前例はないとみられる。

菅家さんは、こんなコメントをしています。
「当時、急に犯人にされました。自分としては全く身に覚えがありません。無実で、犯人ではありません。これだけははっきりと言います」改めて無実を主張しています。
また、警察、検察に対しても、「間違ったでは済まない。この17年間ずっと思っていた。当時の刑事、検察官には謝ってもらう。絶対に許すことはできない。自分の人生を返してもらいたい。父も母もつらかったと思う」と怒りをあらわにした。

そりゃあそうでしょうよ。
本当に無実でこんな目にあうとなると、悔しさは想像を絶するものでしょう。
しかし、そこで敢えて個人的に思うことは、日本の警察は・・・国家権力を背景とした、ある意味で厳密で厳格な仕事をキチンと積み重ねてきて来たんだと思う。
それは、時として毅然とした態度であり、ぶっきらぼうであり、融通が利かない人格であったり、行き過ぎていたり・・・
しかし別の側面として、それゆえに優秀で世界に誇る成果を挙げて来たのだととも・・・。
そして、この菅谷さんにしてみれば、明らかにこの構図の犠牲者だったんだろうと。

こういう、ある意味で厳格過ぎて融通の利かない部分(仕事ぶり)が時代遅れになった時、つまり、そういったやり方や考え方が否定され過ぎる傾向になった時、言い換えると、容疑者の人権に対して最大限に配慮することを求められるようになった時、どういう社会になるのかは、ある意味で見えてくるような気もします。
容疑段階であったしても、人権云々を取り上げすぎると、かえっておかしな世の中になってしまうかも。普通の一般市民はどちらの傾向を望むのか?こういうこともしっかりと議論しておいた方が良いと思う。

ただ今回の事件のことだけをいえば、明らかにDNA技術の問題と、司法制度の腰の重さの問題であり、警察の問題は取調べ段階で一方的に決め付けて暴行を行なったというアナログな点だけかもしれない。
初期段階で800人に1人の精度でDNAを鑑定できていたのだから警察も自白させることに力が入るのも当たり前のような気もする。
お気の毒でしたでは済まされない悲劇ではあることに異論はないが、「絶対に許しません!」と言い切られると、「800人に1人と言えども、それなりの精度だったし、仕方なかったと言い切れる!」と言い返したい気持ちも少しは分かる。